【日 程】令和5年8月18日 【山 名】燧ヶ岳 【標 高】2,346.2m 【天 候】晴れ 【メンバー 】福福 【タイム】 御池登山口7:15--7:17分岐7:17--8:22広沢田代8:22--1,835m(引き返し点)8:48--9:12広沢田代9:12--10:36分岐10:36--10:39御池登山口 私が尾瀬を初めて訪れたのはジャコビニ流星群というのがマスコミで大きく取り上げられれた1972年(昭和47年)の10月で、この時は至仏山と燧ヶ岳に登り、ついでに流星群を観測しようという目論見で出かけた。ところが初日が雨のため至仏山は割愛し、宿泊した温泉小屋では夜中に起こされ観測したものの、ガスが多くほとんど流星は見られず。結局、計画通りに行ったのは燧ヶ岳のみだった。この時燧ヶ岳へは見晴新道から登り頂上からは長英新道を長蔵小屋に下っている。 二度目に燧ヶ岳に登ったのは1989年(平成元年)のGW後半でこの時は計画通り至仏山のムジナ沢をスキーで滑り降り、燧ヶ岳へは長蔵小屋から往復している。三度目は山SIGの面々と1991年(平成3年)のやはりGW後半に長蔵小屋からスキーで燧ヶ岳を超えて御池に滑り降りている。それから32年後の四度目となる燧ヶ岳に今回は御池からの往復という計画を立てた。 檜枝岐の宿に泊まった翌朝、一番のバスで御池を目指すがバスの乗客は我々二人の他には先客の登山者が一人のみで、その後の乗り降りもなくバスは御池に着いた。御池にはバスで沼山峠に向かう10名程が集まっていたが、彼らが出発してしまうと辺りは閑散としてしまい、8月半ばで既にシーズンオフという雰囲気だ。人の少なさに違和感を覚えつつ、とは言え駐車場にはそれなりの数の車が駐車しているので、きっとそれぞれの目的地へもっと早い時間に出かけたのだろうと納得して、その駐車場奥の登山口から我々もスタートする。 尾瀬らしい木道の道を進むと分岐があり、直進は上田代を経由する裏燧林道で以前に三条の滝からこの道を歩いた事がある。燧ヶ岳へはこの分岐を左折するが、この辺りの木道は破損しているものが多い。こういう湿気の多い環境では木道も長持ちしないのだろうが、そろそろ替え時かと思う。緩い登りが終わると濡れて滑りやすい岩ゴロの続く急な登りになる。 「帰りは大丈夫かなぁ」とカミさんが盛んに気にしている。濡れている木道も滑りやすいが、傾斜のある岩場は余計に滑り易いので心配はもっともだ。 足元に十分注意を払いつつ登る内に段々傾斜が弱まってきて再び木道が現れると、その先が広沢田代だった。湿原に池塘、青い空にぽっかり浮かぶ白い雲と正に尾瀬のイメージ通りの場所だが、この時期の湿原に咲く花はちょっと寂しい。種になりかけの黄色いキンコウカが一面にあって白いイワショウブが所々混じるというのが今の状況だ。あとこの辺りの木道は一部が既に取り替えられていて、他にブルーシートに巻かれ木道資材が湿原の中に置かれていた。おそらく雪の時期までには取替が済むのだろうが、資材に押しつぶされた部分は回復に数年かかるのだろう。貴重な湿原を木道で守るためにはその一部を壊さねばならないというジレンマがある。 広沢湿原を過ぎ再び急な登りにかかると、カミさんが頻繁に立ち止まるようになり、気分が悪いと言い出す。確かに顔色も悪そうだ。ただ、ここには腰を下ろして休息が取れるような場所がなく、休んで様子を見るという事もできないので、止む無くここから引き返すことにした。残念だがここは無理をすべきではないだろう。広沢田代に戻ってしばらく休み、その先の岩場の道を来た時よりも更に慎重に下って無事御池に戻って今回の山歩きを終了した。燧ヶ岳はまた次回だ。 宿に戻ってその夜は「檜枝岐歌舞伎」を鑑賞した。役者から裏方まで全て村民だけで継承されてきたという珍しい歌舞伎で、年に3回のみの公演という貴重な日に上手く当たった。大勢の観客を前に堂々と演じられた歌舞伎演者にも感心したが、歌舞伎浄瑠璃の語りの上手さには感動した。皆さん他に職業をお持ちの上にこれだけの事をされるのだから、やはり伝統というのは凄い。 燧ヶ岳に登れなかった無念が吹き飛んだ見事な歌舞伎だった。 トップページへ戻る ポイント写真及び山の位置はこちら→ ![]() | |
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