山行報告>富士山眺望の山、大蔵高丸から景徳院へ

2024/7 /6


【日 程】  令和6年7月6日
【山名・標高】大蔵高丸 1,781m
【天 候】   曇り
【メンバー】  K山、福福

甲斐大和駅から乗り込んだタクシーは天目山温泉を過ぎた地点から県道を離れ右手の林道に入った。狭いが舗装された林道を順調に標高を上げて、20分程走った所に車2,3台程駐車できそうな場所があり、そこが湯の沢峠登山口だった。計画ではここから登り始める事にしていたのだが、午後から発雷の可能性があるという予報を聞いて、少しでも時間を稼ごうと、そこでは降りずそのまま峠まで車で行くことにする。

途中から道は未舗装になったが駅から約40分で湯の沢峠の駐車場に着いた。トイレも有る駐車場には6,7台の車が駐車していて、我々が出発する頃に更に2台のタクシーが上がってきて6名のパーティが降りた。彼らとは下山口の景徳院まで抜きつ抜かれつで進むことになる。

駐車場の直ぐ上にある湯の沢峠は主稜線上にあり、真木からの道がここで合流し、左にとれば黒岳、牛奥ノ雁ヶ腹摺山を経て大菩薩方面へ、右手は我々が目指す大蔵高丸方面だ。峠にあるカウンターをクリックして進むと、ノイバラの白い花が早速我々を歓迎してくれた。この先は草原状のお花畑や疎林が交互に現れる楽しい道で、目的の大蔵高丸は峠から35分程で着いてしまった。

草原状の牧歌的雰囲気の漂う大蔵高丸山頂は富士山の好展望台だが、この日の富士山は左肩に雲がかかってスッキリというわけには行かなかった。それでも富士山が見られて意気軒高の我々が更に進むと今度はシモツケの咲くお花畑に出会い気分が益々上がる。次のピークのハマイバ丸は大蔵高丸より標高が10m程低く、ほぼ横移動であまり時間もかからず着いてしまう。

「破魔射場丸」と書かれた標識を見て、こういう字を当てるのかというのが新発見だった。大谷ヶ丸へは緩い下りが続くが、下りきった米背負峠で早めの昼飯にした。木の葉が日を遮るのでじっとしてると汗が冷えて寒いくらいに涼しく感じて、この先の暑さがまだ想像できない。ここでの昼食中に6人組に抜かれ、大谷ヶ丸でまた抜き返すという展開になった。

米背負峠から大谷ヶ丸へは少し登り返しになるものの、米背負峠から20分とかからない。今年の1月に来た時には木々が葉を落としていたので眺望もあったが、今はまるでなくほぼ素通りで通過する。あまりピークらしくないコンドウ丸は前回に昼食をとった場所なので同じように一息入れている間にまたも6人組が先行する。そんな彼らをコンドウ丸からの下りで抜いてと、休憩場所が違うだけでほぼ同じペースで歩いているのでどうしてもこうなってしまう。

景徳院と大鹿山の分岐で我々は最後の休憩をとってこの先の下りに備えたが、我々が出発するまでは6人組は姿を見せなかった。しかし暫く下っているうちに追いつかれ、もう汗まみれ状態の我々はあっさり先頭を交代したのだが、直ぐ下で彼らが休憩をとったので我々がまた入れ替わる。やがて主稜線では見かけなかった植林も現れ、草の茂ったか細い道を下ってようやく大谷ヶ丸入口の標識に着いた。

ここで登山道は終わりこの先は景徳院の境内に入っていく。景徳院は武田勝頼終焉の地にあるお寺として知られた所だが、境内に「没頭地蔵尊」というのがあり、「武田勝頼公37歳、同 夫人19歳、武田信勝公16歳」の首無し地蔵が祀られている。「勝頼親子の遺骸を陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置した。」ものであり、織田勢に首を持ち去られた後の遺体を葬った場所とも言われている。勝頼はまだしも十代の若さでで自害に追いやられた者の運命を思うと、無惨としか言いようがない。

我々が境内を見て回ている間に、例の6人組は終点のバス乗り場に先着していて、この日の抜きつ抜かれつが決着した。別に競争ではないのだから良いんだけど、でもちょっと悔しいこの日の山歩きだった。

 
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